第11回茅ヶ崎なぎさシンポジウム
日時:平成24年11月11日(日)13:30-17:00
場所:茅ヶ崎市勤労市民会館
*主な講演内容
◆1.三橋卯之助さんの絵が語る茅ヶ崎の歴史:泉山梅夫
1)大漁のオオマグロ。
昭和2年に200頭のシャチに追われて南湖の海に逃げてきた。それを何十も地曳き網をかけて銛を刺して、188kgのオオマグロが63本も獲れた。
1頭のマグロが逃げたので漁師が自分のふんどしをマグロに縛り引っ張ったが、そのまま逃げてしまい、数日後に大磯の網にかかった。
ブリも大漁に獲れた時代でもあり、ブリ50匹を一山として浜で競りにかけた。
2)南湖院
南湖院は明治32年に現西浜中学校西側に開院した。最先端の医療技術を有し、洗濯機、浄化槽、測候所を備えた東洋一の結核
サナトリウムであった。国木田独歩が入院して、読売新聞に連載したため全国に名が知れて、日本中から患者が訪れた。
茅ヶ崎館はお見舞いの客が多く泊まり、独歩のお通夜にも多くの人が泊まった。
国道134号は1930〜1936年に失業対策事業として建設されたが、未舗装であったため南湖院の患者に悪影響を与えると思い、高田院長の自費で道路舗装と松の植林をした。
大正6年から昭和12年にかけて南湖院の患者であった小山房全が地元の繭を原料にして製糸工場の純水館を経営した。
工場は現ダイクマから茅ヶ崎警察署一帯にあり、250人の職員を雇っていたが、女工哀史の時代の中で、女工を大事にした。
3)戦争
太平洋戦争末期には連合軍がコロネット作戦を計画していた。
湘南地区に30万人、九十九里に20万人が上陸し、戦車3万台と爆撃機を併せた総力100万人が帝都東京を殲滅する作戦であった。北九州に上陸するオリンピック作戦はこれの前哨戦に当たる。
これがあったら、茅ヶ崎は壊滅していただろう。連合軍は南湖院を摂取して将校の宿泊所に使用するため、あえて爆撃はせず、戦後はダンスホールや朝鮮戦争の戦車隊の基地として長く使用した。また、茅ヶ崎では人間魚雷の桜花が製作された。
敗戦から数日後の昭和20年8月28日には1000隻を越える艦艇が相模湾に侵入・待機して、9月2日のポツダム宣言調印式を警戒した。
4)まとめ
絵とつなげて自分の声で語ることが大事。
経験した良かった事、つらかった事を心を持って伝えて行きたい。
茅ヶ崎の昔を語れる人になろう。
◆2.茅ヶ崎海岸の浸食対策の状況:(一財)土木研究センター:宇多高明
砂は生きている。
砂浜の表面は時化ると礫で覆われ、なぎると砂の層になる。これが繰り返され、砂浜を掘るとサンドイッチのように礫−砂−礫−砂の互層からなっている。
養浜した礫は-1mから-2mの間で移動しており、沖へもヘッドランドも越えない。
復元すると皆が忘れる。誰がやったというケチな話はしない。
砂浜は共有財産であり、よくなればいい。
到達点は昔も今もある。30年かかってやられたが、今は10年かけて直している。
近年は巨大台風や異常潮位が多く油断は大敵だ。
◆3.アトラクション
今回はピアノとビィオラの演奏:マリエリカでした。
http://www016.upp.so-net.ne.jp/MARIERIKA/
ご来場の皆様、ありがとうございました。
今後も続けていきます。